星の旅人たち

(2010年 / アメリカ・スペイン)

ある日、眼科医トムのもとに、思いもよらない知らせが届く。一人息子ダニエルがピレーネ山脈で嵐に巻き込まれ、不慮の死を遂げたという。息子の亡骸を引き取りにフランスとスペインの国境の町、サン=ジャンを訪れたトムは、ダニエルの遺品が詰まったリュックと亡骸を受け取り、帰国しようとするのだが、胸中で何かが動き始める…。

聖地巡礼とともに大切にしたいこと

記録としては951年のものが最古で、最盛期の12世紀には年間50万人を数えたという、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼。813年、隠者ペラギウスは天使のお告げにより、この地に聖ヤコブの墓があることを知らされ、星の光に導かれて司教と信者がヤコブの墓を発見。これを記念して墓の上に大聖堂が建てられました。以来、聖ヤコブの聖遺物が祀られている大聖堂を目指して、世界中から巡礼者が集まってきます。巡礼者がたどる道はさまざまですが、フランス側のサン=ジャン=ピエ=ド=ポルとスペイン側のロンセスバージェスを選ぶ人が多いとのこと。ピレネー山脈からすべて歩くと780~900kmの距離で、1日平均30km(早めの人)歩くと約1か月かかるそうです。スペインと南フランスには、巡礼者に一夜の宿を与える救護施設が点在し、巡礼手帳を持つ人は誰でも泊めてくれます。設備はユースホステルのようなもので、巡礼者は二段ベッドが並んだドミトリーで寝泊まりし、値段は3ユーロから7ユーロ、または寄付のみで泊まれるところも。また、救護施設に泊まると巡礼手帳に公式のスタンプが押され、サンティアゴ・デ・コンポステーラに到着すると「コンポステーラ」と呼ばれる証明書がもらえます。「コンポステーラ」は中世のカトリック教会では贖宥状の一種だったそうです。

巡礼。「聖地をめぐる宗教的行為」という意味を持つその言葉の響きからは、キリスト教やイスラム教などの敬虔な信徒が苦行を課しながら自らの信仰を試すといったストイックなイメージが湧いてしまいます。日本にも熊野詣とか四国八十八箇所参りなどがありますが、観光ツアーを連想してしまうので、巡礼または巡礼者のイメージとはちょっと違うのかなと思います。ただ、それでも、聖地を目指すという広い意味であれば一緒。さらに、その宗教の信者が一生に一度はしたいと願う巡礼に絞るのあれば、日本の「お伊勢参り」がそれに当たるのではないでしょうか(神道が厳密に宗教と言えるのかは意見が別れるところですが)。正式名称を「神宮」といい、天照大御神を祀る皇大神宮(内宮)と豊受大御神を祀る豊受大神宮(外宮)を正宮とし、別宮、摂社、末社、所管社を含め合計125の社宮からなる、伊勢神宮。2013年に20年に一度の式年遷宮があったことやパワースポットとしての人気が高まり、2014年には年間で1000万人の参拝者が訪れたとのことです。皇室の先祖神であり日本人の総氏神でもある天照大御神を祀っている伊勢神宮への参拝は、日本人なら誰もが心引かれるもの。というわけで、「東海道中膝栗毛」の弥次喜多のように物見遊山だとしても、伊勢神宮は「聖地」でありお伊勢参りは「巡礼」と捉えて良いと思います。

僕も2013年の夏、お伊勢参りを果たしました。東京から夜行バスで名古屋まで行き、近鉄に乗り換えて伊勢市へ。2日間の日程で内宮、外宮および周辺の別宮のいくつかを回って帰京しました。行程だけで言うと、徒歩や自転車を駆使して自分の足で踏破したわけでなく、すべてバスや電車で、しかもぐっすり寝ながらだったので、これを巡礼と言っていいのか疑問ではありますが、ともかく遠方から時間をかけてお伊勢参りをしたことは事実。猛暑、しかも式年遷宮の年だったので大勢の参拝客(巡礼者?)で、大汗かきながらの参拝となりましたが、やはり心洗われる思いがしました。具体的にどう心境的に動きがあったのかなど説明するのは難しいのですが、何と言いますか、本当に心から願ってみたい、心から自分は日本人なんだという強い感動がこみ上げてきたのです。大げさに聞こえるかもしれませんが、感動のあまり涙ぐんでしまいそうになるほど強い感情のうねりを感じました。神道とは皇室そのもの、つまり日本そのものなので、僕の日本人としての血が条件反射的に沸きたったのでしょう。僕の書類上の信仰は仏教ということになっていますが、神道や神社については強い関心を持っています。そういった背景も重なったのかもしれませんが、他のお伊勢参りを果たした日本人もきっと同じ感情を抱いたのではないでしょうか。それはもしかして、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者、また他の聖地への巡礼者も同じなのかもしれません。

この映画は、聖地(サンティアゴ・デ・コンポステーラ)を巡礼する旅人を描いた作品です。でも、ただ単に聖地に到着するという目的だけを題材に取ったものではありません。そこに導かれる人たちが、集い、心を通わせていく姿が捉えられています。僕は伊勢へは完全にひとりで行きましたが、長期の旅をしていると必ずどこかで道連れができるものです。中国大陸や東南アジアを旅していた頃、投宿先で出会い目的地が同じとわかった日本人や外国人と数日あるいは数週間にわたって行動を共にしたことが何度もありました。普段では絶対につるまないだろうと思われる人たちとでさえ、目的地に向かって旅をしているという動機さえ同じであれば意気投合してしまうもの。別れても思わぬところでばったり再会したり、仲の良かった人と連絡を取り合って予定を変更してでも再会したということもありました。聖地巡礼をする人すべてがこうした出会いを経験していることでしょう。僕の場合、いくつかあった目的地の記憶より、旅の途中で出会った人たちとの思い出のほうが鮮明に覚えていたりします。聖地で得られる霊的なインスピレーションもそうですが、やはり同じ目的の仲間ができて一緒に旅することの感動も同じくらい大きい。それを思い出させてくれた作品でした。


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