世界最速のインディアン

(2005年 / アメリカ、ニュージーランド)

ニュージーランドで年金暮らしをしているバートの夢は、愛車のバイク・インディアン号でアメリカ・ユタ州のボンヌヴィル塩平原で行われる大会で世界記録に挑戦すること。このまま夢で終わらせたくない。バートはインディアン号とともにユタ州へ向かう―。

60歳を超えたおじいちゃんの夢

小学5年生の頃だったと思いますが、僕はクラスの中で1、2を争うほどの俊足の持ち主でした。体育の50メートル走のタイムではつねにトップクラスだったし、サッカーなどの球技をするときも足の早さが重視されるポジションを推されていました。そんな折、秋の運動会に向けてクラス会が開かれ、リレーのアンカーを決める話し合いが持たれました。そこで、僕を含めた足の早い生徒が何人か候補にあがったのですが、その際、担任の教師が僕を指さして「お前、早いのか?」と素っ頓狂な声をあげたのです。

これには傷つきました。小学校の教師はクラスの全教科を担当するので、当然私が体育の授業で出したタイムも把握しているはずなのです。なのに、まるでお前のことなど眼中にないといった感じで突き放されたのです。この教師は授業で積極的に挙手して発表する生徒を重視していたので、当時からかなりの引っ込み思案だった僕にとってはやりにくい先生でした。そういう事情もあり、クラスでまったく目立たない僕がいきなりアンカーの最右翼になったことで、先生としては鼓舞の意味を込めて揶揄しただけだったのかもしれませんが、当時11歳の僕にそんな意図は斟酌できません。僕は薄ら笑いでその場をやり過ごし、結局アンカーには別の生徒が選ばれました。

似たようなことはその1年前の4年生の時にもありました。その時の担任は積極性より図工、特に絵の才能を重く見る教師でした。僕は絵に関して特に得意だったわけではないのですが、偶然にも市のコンクールで特選や佳作を獲得したので彼のお気に入りになりました。そんな中、新入生を歓迎するための劇をやることになりました。候補者は自己推薦ではなく先生によって選ばれました。候補者が集められた教室で、役柄の募集が行われました。今度は挙手制です。ある役を希望していた僕は挙手しました。ほかは誰も手を挙げていません。沈黙が流れ僕で決定かと思ったその瞬間、担任の教師が別の生徒を見て「○○君、やってみるか」と指名しました。結局、その役は彼で決定し、僕はどうしたのか、いまはもう忘れてしまいました。

この映画で描かれていることは、「自分で決意したことを納得のいくまでやり遂げる」ことです。主人公は心臓病持ちの高齢者。バイクの改造に毎日精を出すものの奇人に見られ近所から迷惑者扱いされている。そんな中でも、彼はアメリカで行われるスピードレースに出場することを夢見、自分が決めたことをやり遂げるまでは死ねないと、愛車“インディアン”を駆るのです。

その後、僕は人から「求められていない」と信じるようになってしまいました。結果、人と接触することが怖くなり、たとえ親密になったとしてもすぐに去られてしまうと信じ込み、何でもひとりでやることだけが正しいという信念を持つようになりました。それで得たものはあります。ですが、失った、あるいはみすみす見過ごしてきたもののほうがはるかに大きかった。こうした映画を観るたびにそう思います。しかし、この作品は、人間はいくつになっても何かに挑戦する資格があるのだということを訴えています。「求められていない」と感じるのであれば、「求められている」と自ら信じられる分野を切り開いていけばいい。こうした映画からは勇気づけられるというより、まだまだ僕も可能性を秘めていると安心させられるのです。


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