ポンヌフの恋人

(1991年 / フランス)

ポンヌフ橋で暮らす青年・アレックスは、恋の痛手と失明の危機から家出放浪中の女画学生・ミシェルと出会い…。

バラ色になった世界を見たことはありますか

ポンヌフの恋人

「誰かを好きになると、いままで灰色だった世界がバラ色に見える」。恋の始まりを表現としてよく使われるフレーズですね。これは別に大げさな表現でも当てずっぽうな言い回しでもないことは、一度でも恋を経験したことがある人ならわかることだと思います。あの人が話しかけてきてくれた、あの人が笑顔を返してくれた、あの人がじっと見つめていてくれた。気になっている人が自分に少しでも好意的なリアクションをしてくれただけで、その何十、何百倍ものパワーが湧いてくるもの。結果的に、勘違いであったり都合よく解釈しただけというケースももちろんありますが、ある人を好きになり、その人の一挙手一投足に過敏になっていくにつれ、この傾向はどんどん盲目的になっていきます。少しでも脈ありと思い込んだら最後、寝起きの悪い朝は快適に起きれるようになり、すし詰め状態の満員電車も気にならず、けだるい職場もハイテンションで乗りきれる。根拠があるようでまったく根拠のない、このパワーの源こそ「恋」なのです。

だからこそでしょうか。こみ上げてくる得体の知れない力は、これまで避けてきたものに対しての抵抗感がウソのように消え去り、「何でもできる」という自信をもたらします。足取りも軽く、声もいつもより張りがあり、苦手な人とも普通に接することができる。憑き物が落ちたというか、前進を阻んでいた壁が消え失せたというか、とにかく向かうところ敵なしという強い気持ちに包まれ、ネガティブな感情が入り込む余地がなくなる。その人のことを考えるだけで、自然と頬が緩み、背筋が伸び、肩が軽くなり、腹の底から笑いたくなってくる。これを恋の喜びと呼ばずして、何と呼びましょう。

言うまでもないことですが、こういうのは幸運な恋です。恋はつねに楽しいだけのものではなく、その逆に胸を氷柱で貫かれたような、冷たく激痛を伴う恋だってあります。いやむしろ、程度は大なり小なりあれど、辛いと感じるほうがほとんどではないかと思います。そもそもかなうはずのない片思いから始まり、社会的・道義的に許されない恋、両思いではあれど近親者からの猛反対に晒されている恋、金銭的・健康的な理由で断念せざるを得ない恋など、やるせない思いばかりが募る恋は誰もが経験していることだと思います。でも、それでも人を好きになって恋の喜びに浸りたいと思うのが人間です。それは別に、燃えるような情熱に満ちた恋ではなくとも、好きな人を思い浮かべるだけで、前を向いて歩こうという力が湧いてくる、そんな恋をしたいと思うのです。若いうちは楽しいだけで終わり、円熟期、衰退期というサイクルを経て、恋の終焉を迎えるパターンが多いです。だから、恋なんて一過性ではかないものととらえる向きがほとんど。でも、成長していくにつれ、恋をするということは、単に楽しいだけでなく、他人に選ばれた認められたという自己証明、そして何より自分自分が生きているという存在証明を得るという認識が生まれてくるのです。ちなみに、女たらしと呼ばれる男性というのは、そもそも恋愛の目的を別のところに定めている人のことです。

では、なぜ人は恋を追い求めるのでしょうか。身を引きちぎられるほど辛い思いをするのはわかっているのに、なぜ恋をしたいと思うのでしょうか。しかし、恋は求めて得られるものでも、欲した瞬間に手に入るものでもありません。恋は、まったく思っていない方向からやってきて、まったく想定していなかった相手と、まったく考えてもいなかった騒動に巻き込まれるからこそ燃えるのです。そうして出会ったふたりの行動は、理性的であったり計画的であることは一切なく、端から見たら不可解で奇異にも見えるのですが、当人たちにとっては意味のあること。つまり、それこそが恋の喜びの表現なのですから。大人は若者の恋を青臭いと言って笑いますが、そういう大人は若い頃に「世界がバラ色に見える」無鉄砲な恋をしてこなかったのでしょう。この映画を楽しめるかどうかは、それにかかっていると思います。


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