25年目の弦楽四重奏
(2012年 / アメリカ)フーガ弦楽四重奏団結成25周年前夜。チェリストの突然の引退宣言から、ドラマは始まった。それまで抑えてきた感情や葛藤が露呈し、不協和音が響きはじめる。バラバラにくずれ始めた”四角”に、最終楽章の幕は上がるのか。
何かに溶け込んでこその多重奏
日本にいるときはクラシックコンサートにはまったく足を運ばない僕ですが、ヨーロッパではそれぞれの国ごとに聴きに行ってました。いや、日本人が演奏するクラシックが嫌いなわけでなく、なんとなく日本本来の音楽ではないから気分が乗らないため、わざわざ聴きに行くまでもなく、海外の有名なオーケストラのCDを聞けば十分だと思っているからです。そんな僕がなぜヨーロッパでは足繁くクラシックコンサートに通ったのか。それは明らかに、それぞれの街の「音色」に突き動かされたからと言っていいでしょう。音色なんていいうと大げさに聞こえるかもしれません。ヨーロッパの各都市には、必ずと言っていいほど旧市街と呼ばれる中世の面影が感じられる街並みとして整備された、観光客が真っ先に訪れるスポットが存在するのですが、そこから聴こえてくる音色が実に味わい深いのです。石畳の路地を歩いているとどこからともなく聴こえてくるヴァイオリンの乾いた音色、フルートの高らかな音色、腹の底に響くようなチェロの音色。演奏している人たちは観光客からのチップが目当てであるにしても、彼らと街並みのハマりっぷりといったら。
ヨーロッパ周遊を始めた最初の頃は、街を歩くことイコール、ガイドブックに載っている観光スポットに向かうことだったのですが、だんだんと街自体を楽しむ余裕ができてくると、路地や公園などで、誰に聴かせるでもなくひっそりと演奏している彼らのことに気づきだしました。もちろん、観光客が集まるエリアには、いかにも興行をしているといった感じのパフォーマーがたくさんいます。そういうのも見てて面白いのですが、僕なんかは遠巻きに眺めてチップは払わず立ち去ってしまいます。金を払いたくないってのもあるんですが、そういう人たちは街に溶け込んでないんです。街の音色でもないんです。その反面、城壁の片隅でヴァイオリンを弾いていたり、路地の日が当たらないところでクラリネットを吹いていたりするのを見ると、街の景観を愛し街の歴史を受け継いでいこうという意思が感じられ、ふと立ち止まってその音色に耳を傾け、そっと楽器ケースに小銭を入れてあげたものです。そんな中、街の至るところにある教会で定期的に開かれているコンサートに足を運ぶようになったのです。
初めは宿で一緒になった日本人旅行者に付き合うかたちで聴きに行ったクラシックコンサートですが、それ以降は各都市で教会を探してはコンサートが開かれているかどうかチェックするようになりました。最初に参加したのはチェコのプラハにあるティーン教会だったと記憶しています。演目はヴァイオリン、チェロ、フルート、バリトンといった多重奏で、ヴィヴァルディやドボルザーク、ベートーヴェンなどの定番曲。天井が高くステンドグラスが美しい教会という荘厳な雰囲気の中で演奏されるクラシック曲が美しくないはずがなく、いちばん安い席だったものの鳥肌が立つくらいの感動を得るには申し分ありませんでした。プラハの後は、ブダペスト、ウィーン、ローマなどで教会のコンサートに行きましたが、どこも最高でした(特に、ウィーンはモーツアルトの本場というだけあって格別)。旧市街の中の教会という、コンクリート製の東京都心とはまったく異なる清浄かつ神々しい雰囲気もさることながら、そこに歴史や伝統を愛する、路地裏の名もなき演奏者たちを重ね合わせていたのかもしれません。
僕がコンサートで感動したのは何も教会で行われたからだけではありません。その楽団のメンバーが3人にしろ10数人にしろ、見事なまでのあうんの呼吸で演奏を楽しんでいることが感じられたことにあります。また、これは楽団という組織の一般儀礼で当たり前なのかもしれませんが、リーダーあるいは指揮者がそれぞれの演奏者に敬意を払い、ソロパートを演奏しきったら笑顔で称えていたことでした。僕がそういった作法は通例のものであると知らなかっただけでしょうけど、楽団のメンバーはみな仲がよく、卓越したひとりが引っ張るのではなくチームワークで演じきるというピュアな印象を抱いたものです。でも、この映画で四重奏のメンバーのひとりが、ソリストは孤独だというような台詞があったのですが、おそらくどの楽団のメンバーにも共通なのだろうと思います。ところで、路地裏の音楽家たちも孤独なのでしょうか。いや、中世の街並みに溶け込み、街の歴史と伝統を守り続けている彼らの使命は、孤独をも打ち砕くほど強固なのだと信じたいです。