息子のまなざし

(2003年 / フランス)

職業訓練所で大工仕事を教えているオリヴィエ。ある日、フランシスという少年が入所してくる。やがてオリヴィエは自分のクラスに入ってきたフランシスに仕事を教えるようになり、フランシスはオリヴィエを父親のように慕うようになる。しかし、オリヴィエの心にはある事件の影が重くのしかかっていた。フランシスは、5年前に自分の息子を殺害した犯人だったのだ・・・。

神の赦しと水に流すことの精神性

絶対に許せない相手であるのに我が子のように慈しみ育てる。そんなこと聖人でもない限り、無理に決まっています。何も替えられない大切なものを奪った相手、何不自由なく幸せだった生活を踏みつぶした相手、順風満帆だった人生を奈落の底に突き落とした相手。憎しみや報復の対象とするのが当然であり、そうした激情はいかにそれまで穏やかな生活を送ってきた人であっても共通のものであり、何人からも責められるものでもないはずです。むしろ、周りからは落ち着くよう諭されはしても、共感されるのが普通ではないでしょうか。神に救済を祈る時点で、その人は怒りに満ち溢れている証拠であり、いかに信仰心が篤いとは言ったところで普通の人と大差ないということになるかと思います。

ところで、「許す」ということに関して、欧米では「神の赦し」、日本では「水に流す」という考え方があります。神の赦しとは、人間はもともと持っている原罪(知恵の実を食べて神に近づこうとしたこと)について、神の子イエスに仲立ちされてはじめて罪として意識を持ち、悔い改めができるようになること。イエスを信頼し、彼に願うことによって神へのとりなしをしてもらうことが神の赦しにつながるというわけです。それに対して、日本の「水に流す」は異民族からの侵略や支配がなかった日本において、執念深さや過去のいきさつにこだわる執着心は強く醸成されませんでした。これに加え、潔さの観念もあり、過去のことを恨み続けることは潔くないとされ、きれいさっぱり水に流すという風潮が生まれたのだと思います。

では、欧米人あるいは日本人が、絶対に許せない相手に対して、このような「神の赦し」や「水に流す」の精神は適用されるのでしょうか。おそらく、水に流すことはできないと思います。水に流すとは自分にとって都合の悪いことに対しても援用できるため、どちらかというと楽天的、不徹底なところがあり、厳格な意味での赦しにはつながりません。限度を超えてしまったら、会津藩ではないですが「ならぬものはならぬ」で断罪するのを正義とするはずです。これに対し、神の赦しはイエスを仲介として「神」という絶対的存在を前提としているので、神がそうと決めたことにはなんとしても従わねばなりません(宗教者でない僕にはよくわかりませんが)。ですから、そもそも「絶対に許せない」という概念は、神が決めることであって、迷える子羊である信徒に他人を断罪する資格は与えられていないのです。

この映画は、そうした精神性を理解した上で鑑賞したほうがよいと思います。そうでないと、実の息子を殺した犯人フランシスを受け入れつつある主人公のオリヴィエが単なるいい人だとか人格者だとしか見えなくなります。そんな中、オリヴィエの元妻が非常に示唆的な存在でした。彼女はオリヴィエに対して猛然とつっかかり、フランシスに対する恨みつらみをぶちまけます。そこには神の許しを請うなどという姿勢はなく、ごく自然な人間本来の姿がありました。言ってしまえば、神の存在自体を水に流して自らの本能に従うといったところでしょうか。それが神の前で許される行為であるのかわかりませんが、このふたりの存在が神の有無を示しているようで興味深かったです。

また、回想シーンがない一方通行の展開の中、オリヴィエと元妻がどのような怒りと無念を抱えることになったのか。それをいかにリアルに想像できるかどうかも、ラストシーンをどう読み取るかの試金石となるでしょう。


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