シャイン
(1996年 / オーストラリア)デヴィッドは、幼いころからの父親の過剰な愛情と厳格なレッスンのもと、ピアノに打ち込んでいた。しかし父親の過剰な愛情に耐え切れず、デヴィッドはついに勘当同然のかたちで家を出てしまう。いつしかデヴィッドはコンサートの中、拍手をあびながら倒れ、以後精神に異常をきたしてしまう・・・。
親の人生観こそが子供の生き方を左右する
かつて追い求めて結局手にすることができなかった夢を自分の子供に託そうとすることは、子を持つ親にとって当然の心理なのだそうです。特に、子供の中に自分の姿を見てしまう場合、それが顕著になるとのこと。たしかに考えてみれば、自分が夢を追い求めている過程であの時こうしておけばよかったという後悔や反省は必ず持っているはずなので、いくらでも取り返しの利く子供に当時の自分自身を重ね合わせ、その子が本気かどうかにかかわらずつい熱が入ってしまうことは想像に容易いです。ただ、子供がある程度成長して適正を見極めてから本腰を入れるのならまだわかるのですが、生まれた瞬間から、いや生まれる前から、もう子供の人生を決めてしまおうという親もいるようです。たとえば、野球の藤川球児選手なんて、命名からして野球をやるため(やらせるため?)足枷を付けられたと僕のような外野は思い込んでしまい、プロ野球選手になれたからよかったものの、ほかの人生の選択肢はあったのかとつい懐疑的になってしまいます。
このような親の心理状態を分析したオハイオ州立大学心理学教授ブラッド・ブッシュマン博士によると、「子供に夢を託す親は、なにも子供を利用し、自身の失敗や喪失感を補おうとしているわけではないのです。子供に自分自身をみている、といったほうがよいのかもしれません」とのこと。子供の成功に、親であることの喜びや存在価値を見いだす。あるいは、子供は自分の分身であるがごとく、子供に自分自身を重ね過ぎてしまう。博士曰くこれが、子供に自身の夢を託すタイプの親の心理なのだそうです。親としては、子供を自分の思い通りにしたいだとか、子供の人生にレールを敷いてやり自分の掌の上に置かせるようにしたいだとか、はたまた自分が達成できなかった悔恨の意趣返しをするため子供を利用するなんてことはあり得ないわけです(絶対とは言い切れませんが)。どんな形であれ、自分の子供に将来の可能性を見出すことは、その子を愛するがゆえのごく正常な感情であるはずだからです。
たとえ親が本気だったとしても、子供がそれに反発することもあるでしょう。ピアノ教室に通うのが苦痛だと訴える子供や、剣道の稽古に行くのが辛くて仕方ないという話はそれこそ掃いて捨てるほど聞きます。この程度の習い事ならまだしも、親が自宅に専用のトレーニング施設を増設したり、緻密な強化プランを組み立て子供に強要していたりするとなると話は別です。もう完全に「巨人の星」の世界で、子供が親の意を汲んでガチで取り組めばいいものの、まったく関心がないまま強制されていたとしたら、彼の人生に重大な瑕疵を刻みこむこととなってしまうでしょう。ノイローゼになるのは目に見えていて、トラウマという大人になっても消えない心の傷を背負ったまま生きていかねばならないことになるのです。
そうは言っても、こういう親を持った子供は不幸なのでしょうか。星一徹みたいな親は例外として、子供に可能性を見出し誠心誠意コミットしてくる親というのは、たとえ方向性が誤っていたとしても、子供を見捨てない親です。よく子供が生まれた芸能人にインタビューしている映像を見ると、「この子が好きなことをさせてあげたいです」と言ってるのを耳にしますが、こういう親はある意味、子供に無関心な親だと思います。子供がしたいことをする。子供は、その「したいこと」が何なのかわからない存在です。だから、親は子供の適正を見出し、また何かしらの動機付けをし、子供を無気力にさせないための道標となってあげないといけません。この芸能人は、子供が「○○したい」と言い出すのをずっと待っていて、結局その子に何もインセンティブをあたえないまま腑抜けに育ててしまうのでしょうか。何も特徴がなく、保証された安全のもとでしか生きられない能なしとしての人生を歩ませてしまうのでしょうか。
この映画の主人公デヴィッドは、子供の頃から父親から溺愛されながらもピアノのスパルタ教育を受け続けてきました。父親は、自身が音楽を志したことが彼の父親の逆鱗に触れ、楽器をメチャメチャに壊されたことで音楽を諦め、その代わりに息子に自身の夢を託しました。しかし、それはデヴィッドの音楽の才能を開花させるためというより、ただの「偏愛」に傾いていくようになり、デヴィッドを自由に羽ばたかせることをさせません。こうしたバックグラウンドのもと、デヴィッドはやがて精神を病んでしまうのです。
さて、デヴィッドの人生は不幸だったのでしょうか。ピアノを叩き込もうとする父親の存在が精神異常の遠因となったことは事実ですが、最終的に彼が人生の伴侶を得て自由気ままな人生を手に入れたのも父親の影響があったからこそです。結果論に違いありませんが、デヴィッドの父親の夢はデヴィッドに引き継がれたわけです。デヴィッドが「好きなことをさせる」方針で教育されていたとしたら、彼がピアノの才能に目覚めることはなかったでしょう。子供を生かすも殺すも親次第。この映画を通して、親とは、子供に多大な影響力(強制力)を持つ存在であるよりも、子供が憧れを持ち目標とされる存在でなければならないとも感じました。