ダンサー・イン・ザ・ダーク

(2000年 / デンマーク)

60年代のアメリカを舞台に、母と子の愛を描く。息子を失明から救うべく、工場で働きながらセルマは手術費を必死で貯めていたが…。

現実逃避を直視しよう

「鬱アニメ」とか「鬱ドラマ」と呼ばれる作品があります。とにかく作風が暗くて、主人公や登場人物が精神錯乱や死といったバッドエンドで終わる内容で、観終わって思わず気分が塞ぎ込んでしまう作品のことを言います。そういう陰惨さが醍醐味で一種の芸術表現であるという見方もありファンも多いとのことですが、「鬱」というネガティブな単語を冠している通り、気が抜けてやる気が起きなくなるものがほとんど。ただ暗く絶望的な内容であることは確かですが、ごく一部のファンだけの嗜好ジャンルというわけではなく、現代社会の暗部をえぐり出したペーソス漂う社会派ドラマと評価される向きもあり、僕も結構好きだったりします。そういう作品を観たいと思う動機は、単に好奇心からだったり、落ち込んだ気分に追い打ちを喰らわしたい自虐観念からだったり、さまざま。とはいえ、「サザエさん」は例の症候群が辛すぎるのでさすがに観ませんけどね。そんな中で、僕がいちばんの「鬱映画」として推しているのが、この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」です。

ストーリーは言うまでもなく「鬱」です。弱視の主人公セルマは、将来的に失明してしまうことが明らかな息子ジーンのために手術代をコツコツ貯め続けているのですが、隣人のビルにそのお金を盗まれてしまう。視力がほとんどないことを逆手に取った犯行で、セルマはすぐにビルの犯行であることに気づき返却を求めますが、揉み合いの末、セルマはビルを射殺。警察に連行され、法廷で死刑判決を下されてしまうという内容です。目が不自由でありながらジーンを思う気持ちだけは強いセルマですが、一本気であるがゆえに、もう見るからに痛々しく無力で、言動の一つひとつから「あぁ、この人は幸せになれない」と思わずにはいられません。家庭用ビデオで撮影したようなカメラワークも物寂しさを誘います。じゃあ、なんでそんな救いようのない映画をいち推しするんだ、という話ですが、それは絶望的なストーリー展開の中でも、セルマが決して希望を失っていないという心情を鮮明に描き出しているからです。

セルマは、やるせない状況、絶対的なピンチ、後戻りできない無力感に陥ると、歌い踊りだします。映画的にはミュージカルシーンに切り替わるのですが、踊っているときのセルマは、情感たっぷりに自己表現し、切々と心境を歌い上げ、自分は生きているというメッセージを躍動的に伝えてきます。これがいくら映画としての演出だとしても「現実逃避」には違いありません。実際、ミュージカルシーンが終わると、セルマは希望の光の見えない現実に引き戻されます。ただ、現実逃避だということを演出により際立てているからこそ、観ている人にセルマの人間性がダイレクトに直撃するのではないでしょうか。嫌なことや辛いことがあったとき、楽観的かつ希望的な空想をすることで、精神を安定させようとすることは誰だってすることです。一般的に社会的地位が高く逆境に強いと言われる人だって、社会的ストレスなどに打ち勝つことができず、酒で現実を忘れようとするものです。空想、酒に限らず、旅行やゲームなど現実逃避の手段はいくらだってあります。つまり、誰だって辛いことからは目を背けたい。現実逃避は絶望の中に希望を見出そうとする自然な行為であり(程度の問題はありますが)、生活が貧しく障害者で学歴も技術もなく移民であるセルマという社会的弱者だけがするものじゃないのです。

だから、この映画を観た多くの人は、ミュージカルシーンが強く記憶に残るはずです。映像的に完成されているからという意味ではなく、「共感」できるからです。歌い踊るセルマの心境を自分自身を重ね合わせることができるからこそ、セルマの日常が対照的な色彩をもって鮮烈に心に突き刺さるのです。好き嫌いはかなりはっきりと分かれる作品ですが、強烈すぎるラストも含め、この映画を観て何も感じない人はいないでしょう。なお、映画のジャンルとしてはドラマあるいはミュージカルではありますが、僕には、人間は表裏二面ある世界に生かされている隷従者であるというファンタジーのようにも思えます。とにかく、この映画ほど、「鬱」ではありますが、鮮烈すぎるイメージが脳裏にくっきりと焼きついて離れない映画はありません。


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