ファーゴ

(1996年 / アメリカ)

ノース・ダコタ州ファーゴ。多額の借金を負い生活が破綻しそうな自動車セールスマンのジェリーはとんでもない解決方法を思いつく。前科者二人組のカールとゲアに妻を偽装誘拐させて自動車業界の大物である義父から身代金をだまし取ろうというのだ。

狂言以上の恐怖とは

世間をアッと言わせるような大事件も、蓋を開けてみれば実は狂言だったということが往々にしてあります。この自作自演とかやらせとか言い換えられ得る狂言は、もちろん誘拐や強盗といった犯罪を自分ででっち上げて不当な利益を得る手段のこと。もっと簡単に言えば、犯罪の被害者になったとそれらしい嘘をついて相手を騙すことにほかならず、当然のことながら罪に問われます。よくあるタイプとして、強盗被害に遭ったと嘘をついて店の売上金を横領するもの、自身を刃物などで傷つけて勤務放棄したり元恋人の気を引いたりするもの、仲間内や親族内で誘拐を装って身代金を詐取しようとするものなどがありますね。検索すると結構似たようなのが出てきます。で、事件が狂言だと発覚するのは、たいてい当事者の供述が不自然で矛盾していること。やる側も計画的ではなく突発的に被害者を装った演技をするので、そりゃプロの捜査員にすぐに見破られるわけです。でも、たとえ素人でも練りに練った計画のもと迫真の演技で乗り切り、架空の事件を世間を動かすほどの大事件に仕立て上げるケースだってあるから困りものです。

さて、狂言を仕掛けて捕まった際に問われる罪ですが、虚偽申告による軽犯罪法違反が基本で、狂言によってどういう悪事に手を染めたのかでいろいろ変わってきます。店のお金に手を出したなら業務上横領、虚偽の風説を流布して業務を妨害したなら偽計業務妨害罪といったところ。ま、僕は法律関係にまったく疎いのでこのへんで勘弁を。とにかく、狂言罪という罪の規定はないようなので、犯した内容を吟味されて適応されるのでしょう。それにしても、上述した通り、狂言が発覚するのは当事者の曖昧な供述がほとんどという話をしましたが、たとえばこれが個人ではなく集団で起こした狂言だとしたらどうでしょう。これがプロの犯罪集団だったら話は別です。でも、報酬などの利益をちらつかせて狂言に同乗させたケースだとすると、犯罪を犯す側の中で意図しなかった空気が出来上がってくるのが怖い。犯罪に結びつく典型的な集団心理として、「仲間がいることで気が大きくなって(モラルや道徳が)どうでもよくなる」「仲間に自己顕示したくて大きなことをしたくなる」といった特徴があります。モラルが欠け自意識過剰になってくると、もう仲間意識なんて吹き飛んでしまうでしょう。そう、仲間割れが発生するのです。狂言(偽装)誘拐はこのパターンで破綻することが多いのではないでしょうか。

この映画は、誘拐という罪の重さを問うものでも、犯罪を犯す側の心理を描写したものでもありません。そもそも、クライム映画なのかコメディものなのか、よくわからない(わからせない?)空気が延々と流れていて、ともすれば集中力が途切れてしまう瞬間がちょくちょく訪れます。そんな中でも、映画の冒頭で残酷な描写についての注意書きが出てくるように、真っ白い雪原に真っ赤な血しぶきが舞うシーンがところどころ流れます。物語の筋は狂言誘拐を仕組んだ妻子ある男性が、誘拐を依頼した2人組との間で齟齬が発生し、どんどん血みどろの展開に発展していくというもの。実話をベースにしたものだそうです。狂言として始めた誘拐劇が、そのまま計画通り進めば身内からお金をせしめて終了だったものが、誰も想像しなかった悲劇を生んでしまった。現実とはあくまでも現実で、狂言、つまり作り物ではないわけですが、その現実こそが狂言じみた狂気を紡ぎ出した。現実ほど怖いものはないということでしょうかね。


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