マイ・ブルーベリー・ナイツ

(2007年 / 香港・中国・フランス)

失恋したリジーは、とあるカフェに出入りするようになる。毎晩ブルーベリー・パイを残しておいてくれるカフェのオーナー、ジェレミー。優しい彼との会話に、心が慰められるリジーだったが、失恋相手が新しい恋人といるところを見てしまい、旅へ出ることを決める。

接触こそ愛情表現の基礎

食事した後、恋人の口の周りに食べた物の残りカスが付いていたら、あなたはどうしますか。この時にあなたが取る行動で、相手に対する思いの度合いが推し量れるのではないかと思います。「口の周りに何か付いてるよ」と教えてあげるのが一般的だと思うのですが、これはまだふたりの間に距離感があるということではないでしょうか。教えてあげるということは見て見ぬふりをすることより何倍もましなのですが、それでも結局は自分は手を下さず相手に行為を促すということ。いくら親密げに教えてあげたところで、あなたが食べた物のカスなんて汚いし触りたくないから自分でやってよということなので、出会ったばかりや付き合いたてならまだしも、交際してしばらくたつカップルなら、ちょっと心配したほうがいいかもしれません。

何かの本で読んだのですが、「約束の時間を過ぎても男のことをずっと待っている女がいたとしたら、もうその女は相手の男とセックスをした」ということらしいです。一度体を許したということは、その男に対して身も心も捧げたということなのでしょう(反対に、男はなるべく多くの女とセックスをしたがる)。だから、この場合、恋人の口の周りに“お弁当”が付いていたら、少なくとも手で取ってあげるという接触する行為があって初めて、ふたりは互いに情愛を結び合っているといえるのではないでしょうか。男だったら「俺のことを気にかけてくれている」と思い、女だったら「私を守ってくれている」と感じる瞬間というのは、非常に大きな意味を持ちます。

この映画はこういった愛情表現を端的に示した作品だと感じました。失恋して傷心のリジーは、ニューヨークでカフェを経営しているジェレミーと知り合って彼のカフェの常連になり、いつしかふたりは気脈を通じるようになります。ジェレミーはリジーのためにいつもブルーベリーパイを用意して待っていて、彼女といる時は特製のパイで食事を共にします。そして、ある日、カフェのカウンターで寝込んでしまったリジー。口元にはパイの欠片がびっしり。それを見たジェレミーはリジーの口元に顔を近づけ……。その後、リジーはニューヨークを離れます。あちこちで飲食店の仕事をしながら、さまざまな人たちとの感情のぶつかり合いをし、結局ジェレミーのカフェに戻ってきました。ジェレミーが作ってくれたブルーベリーパイを食べ、疲れたからかリジーはカウンターで居眠り。口元にはパイの欠片がびっしり。それを見たジェレミーは……。

欧米人にとってキスをするということは日常的なのでしょうが、僕が気になったのはジェレミーがどのタイミングでリジーに対する思いを確信したのかということです。いつ来店するとも知れないリジーのためにブルーベリーパイを残しておき、彼女がニューヨークを離れてからも、おそらく「きっと戻ってくる」と確信していた。リジーのほうはというと、ジェレミーへの思いに気づいたのは旅の途中でしょう。ですが、もっと気になるのは、リジーが去る前、ジェレミーは彼女に寝顔にキスをしたのかということ。映像の見せ方によってジェレミーの頭がブラインドになって見えなかったのですが、彼はキスをしたのか、それともただ彼女の口元をキレイにしてあげただけなのか。いや、もっともっと気になるのは、ジェレミーのその行為にリジーが気づいていたのかということ。想像力が膨らみますね。

ただ、これだけは言えます。相手に対して愛情を表現するのに、別に、相手の頬に何か付いているからといって、口を寄せてそれを食べてあげる必要なんてありません。手を伸ばして取ってあげるだけで十分です。まだミルクの吸引が上手くできない赤ちゃんの口元をつねにキレイにしてあげる母親のような愛情表現は、たとえそれが小さな行為であっても相手に与える情感の深さに違うところないからです。


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