ミスティック・リバー

(2003年 / アメリカ)

たったひとつのの忌まわしい出来事が、少年たちの運命を変えた。幼馴染みのジミー・デイブ・ショーンがいつものように路上で遊んでいると、警官と思われる男が近づき、デイブだけを車に乗せて走り去った。

天に唾することの習性

「贖罪」。どんな意味か聞かれて正確に答えられる人はどれほどいるでしょうか。もちろん、罪滅ぼしとか罪を償うとか、言葉の置き換え的な説明は誰でもできると思いますが、ここで焦点としているのはその原型的な意味。もうこのへんで宗教的なにおいがして途端に神との対話みたいな高尚な解説に発展しそうな雰囲気なのですが、調べてみるとたしかに僕には高尚すぎました。そもそも贖罪とは、人間の罪と苦しみからの解放を意味し、広い意味では神の救済、償い、和解、許しと同義。中でも特に重要な意味合いを持たせているキリスト教では、生と死と復活を通じての、神の恩恵として実現される人間の罪からの解放と、これによってもたらされる神との交わりの回復をいう、そうです。まったくピンと来ませんでしたが、まとめると、悔い改めた罪人を罪の影響から解放して、彼らが神と和解できるようにすること、とのことでした。……はい、わかりません。これは、小さい頃から教会に通い、神の御前で懺悔し続けないと実感できないことなのかもしれません。

宗教とは、人間は生まれたときから罪を背負っているというコンセプトが土台になっていて、その宗教の神を信じることだけでしか罪を逃れることができないということを説いているもの。完全に僕のイメージではありますが、駅前などの繁華街で宗教の勧誘をしている人から、そんな口説き文句をよく耳にすればそうなるというもの。あと、いろんな理屈を付けていま以上に幸せになれるとか、悩みを聞いてあげるとか。勧誘は別として、人は罪人(つみびと)であるという考え方が顕著であるのがキリスト教だと思うし、キリスト教の神を信じていない人を異端視する傾向が強いのもキリスト教なんじゃないかと思います。罪人と言っても殺人犯とか強盗犯のことではなく、人間は神と違って不完全な肉体や精神を持っていることなのだそうですが、人間すべてが神になれるはずがなく、そもそも神という存在こそどういうものなのだという話になってきます。その答えを出せないまま、異教徒を根絶やしにしようと侵略、虐殺を繰り返してきた宗教の歴史には首を傾げるばかりです。

さて、この映画は「贖罪」をテーマにした作品ではないのかもしれませんが、僕には、人間というものはたとえどんな神を信じていても、永遠に贖罪することは不可能なのだということをバックボーンにしているように思えました。少年時代のジミー、ショーン、デイブは路上でホッケーをして遊ぶ仲だったが、ある日デイブが警官を装った男たちに連れ去られます。監禁されたデイブは4日後に戻ってきましたが、その後3人は一緒に遊ぶことはなくなった。そして大人になった彼らが再び交わります。先妻との間にできた娘ケイティーを殺されたジミー、その事件の捜査をすることになったショーン、事件当夜ケイティーと同じバーにいたことで殺人の容疑をかけられたデイブ。この3人が子供時代と同じ結末を迎えてしまいます。つまり、ジミーとショーンはデイブを見捨て、デイブは見捨てられた。しかも、そうした悲劇があったにもかかわらず、ジミーは罪を見過ごされショーンは妻とよりを戻した。多分に見当違いなところもあると思いますが、結果的にデイブは厄介払いされたように感じます。事件は偶発的だったにせよ結末が意図的ではなかったにせよ、ジミーとショーンが子供の頃に植え付けられた後ろめたさが払拭されたのではないかと。

人間は平等ではないから、神になんかなれるわけがない。作品を通じて、そんなメッセージが声高に聞こえてくるような気がしました。


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