アイ・アム・サム

(2001年 / アメリカ)

7歳児程度の知能しかもっていないサムは、娘ルーシーとささやかな生活を続けていたが、彼に養育能力がないと判断したソーシャル・ワーカーがふたりを引き離してしまう。サムはやり手の弁護士リタを頼り、裁判でルーシーを取り戻そうとする。

子供はいつまで親の物なのか

知能障害を持った男性サムは、ある日ひょんなことから娘を授かりますが、相手の女性は養育を放棄して逃亡。ルーシーと名づけた彼女を育てることとなったサムは、同じく障害を抱えた仲間や自閉症の隣人に支えられながら、ルーシーとの幸せな生活を送っていきます。しかし、7歳程度の知能しかないサムに対して利発で賢いルーシー。サムには7歳を迎えたルーシーを養育していく能力がないとソーシャルワーカーに判断され、ルーシーはサムから引き離され施設で暮らすようになります。失意のサムでしたがルーシーを取り戻すべく法廷で争うことを決意し、超多忙の弁護士リタに無償で弁護をしてもらう約束を取り付けると、ルーシー奪還のために奔走する。

自分の子供だから親権はもちろん自分にあり、その子を勝手に奪われることは絶対にあってならないことです。ですが、冷静になって考えてみると、たとえ深い愛情はあったとしても、子供に対して責任能力のない親が果たしてその子の成長にどんな影響を及ぼすのか疑問を禁じえません。サムはコーヒーショップなどで簡単な業務はできますが、資金繰りや契約順守などの正確な判断する能力に乏しいため、準禁治産者に近い状態といえるかもしれません。また、ルーシーには歌を歌ってあげたりブランコで遊んであげることはできますが、勉強を教えてあげたり人生の岐路に立った時のアドバイスをしてあげることもできません。法廷で検事がサムに言ったとおり、ルーシーが幼いままならいいけど、これからどんどん成長していくことを阻害することはできないのです。

僕の両親は健常者であり教育を受けてきた人ですが、ふたりとも大学には行っていません。だから、僕が大学に進学する際は近くに相談できる人がおらず心細かったのですが、それでも何とかなりました。それは僕が高校まで普通に生活してきてそれなりの分別と判断能力を養ってきたからです。これがもし7歳の知能しか持たない両親だったら、僕の精神力も同じレベルかそれよりちょっとだけ上のレベルで止まっていたかもしれません。なぜなら、幼少期、少年期における精神の健全育成は両親からの影響力に多くを依存しているからであり、それが思春期になって良好な友人関係を築けるかどうかにつながるからです。

たとえどんな境遇であっても大切な人を守りぬく、という理念は理解できますし僕自身そうあるべきだと考えています。でも、その大切な人の将来をも守りぬこうと思うのであれば、いつまでもベタベタすることはやめて思い切って突き放す勇気も必要だとも考えます。7歳の知能しかないサムは本能的に思ったことだけを口にすることがほとんどで、ルーシーの将来を考えた上で自らの身の処し方を決める能力が乏しいのだと見受けられました。たしかに、ルーシーを取り戻すためにあれこれ手を尽くす姿は、子を持つ親なら誰でも心打たれるのでしょうが、実際は「映画は映画、現実は違う」と割り切って観ているのではないでしょうか。多くの人の共感を呼んだ映画ではありますが、僕には「子離れできない親」を美化した映画に思えてなりませんでした。


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