イカとクジラ

(2005年 / アメリカ)

元人気作家でいまは教え子と同棲中の父親と、今人気作家で自分の恋愛遍歴を息子たちに語る母親と、両親の離婚からくるストレスをビールで解消する12歳の弟と、ピンク・フロイドをパクッてコンテストで優勝した16歳の兄の、生きることが下手な家族4人の物語。

恐怖を感じることは弱さではない

いまでも記憶に残っている怖い絵があります。僕が小学生低学年だった頃のこと。学校の定期健診で虫歯が発覚した時は、住んでいた地区に歯医者がなかったため、バスに乗って市街地まで出て治療しにいかないといけませんでした。歯医者に行くのは嫌だったのですが、家しかない住宅街から出て駅前の繁華街に行くというのは一種の冒険であり、デパートやバスターミナル、マクドナルドなどのお店を目にするだけでもワクワク。それで、治療後には駅前のデパートの地下でファストフードを買って食べさせてもらうのが一番の楽しみでした(もちろん1時間たってからです)。ただ、そのファストフード店の壁に据え付けてあった絵がたまらなく怖かったのです。どんな意匠の絵だったか、細かいことは忘れましたが、そこに描かれていた鳥の造形が怖かった。擬人化したハチドリというか、ハチドリにさせられた人間というか、作り物だとわかっていても姿形がとてもリアルで、その飛び出た目玉はどの位置からでも僕を見つめているようでした。なので、意図的にその絵に背を向ける格好で食事をしていたことを思い出します。

当時は本当に怖かった。家の近くでは食べられないファストフードのお店じゃなかったら絶対に来てなかったはずだし、そもそもマクドナルドとかに鞍替えしていたはず(でも、そのお店はフライドチキンが異常に美味しかったのです)。たかが絵ごときが怖くて行きたくないとも言えなかったという事情にあります。街の歯医者にはいつも同じクラスの友だちと一緒に行ってたのですが、彼はその絵に気づいていたはずですがまったく意に介すところありませんでした。まさか僕だけが怖がっているのではないことを確かめるため、彼にそれとなく「何あれ~」と、その絵に視線を向けさせましたが、やっぱり彼は一瞥くれるだけでフライドチキンにかぶりつく始末。自分だけが恐れている現実にハッとさせられるとともに、いつ背中をハチドリのくちばしで突かれるのか、ひとり底なしの恐怖につままれいくのを必死で制御していたものでした。

もし、いまその絵を見たら何とも感じないと思います。むしろ、子供の頃はこんなのに恐れていたのかと冷笑すら浮かぶことと思います。でも、その冷笑とは「成長」の証なのでしょうか。かつて恐れていたものに対して、いまとなっては笑い飛ばせるほどの強さを手に入れた、直視しても恐怖を感じない心の安定を手に入れた、逆にハチドリを怖れさせるほどの腕力を手に入れた。自らの過去において障壁だったものを乗り越えたことが成長というのならたしかにそうかもしれませんが、ただ大人になっても僕はつねに何かに恐れを抱いているという現実を無視してはいけない。会いたくない人、行きたくない場所、言われたくない言葉。子供の頃はそういうのに対して身を守る術を持っていなかったので打ちのめされるだけでしたが、大人になると「自分が傷つかないように逃げる」というずる賢さが働くだけにたちが悪い。逃げることで成長はあるのでしょうか。子供の頃怖かったものを見つめ直して冷笑するというのは、成長の証でもなんでもなく、いま現在逃げているものを無理やり笑い飛ばそうとする自己欺瞞の発露としか言えないと思います。

「ノブレス・オブリージュ」とまでは言いませんが、子供を恐怖から救ってあげ、守ってあげられるのは大人しかいません。その大人が、泣いている子供を遠巻きに見て笑っているとしたら、その人は子供にどんな人生訓も教えてあげられないと考えていいでしょう。そういう意味では、巨大なクジラとダイオウイカが決闘している模型を見て、怖いと言って泣くべきなのは、大人であっても構わないと僕は思うのです。


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