ベンジャミン・バトン 数奇な人生

(2008年 / アメリカ)

80歳で生まれ若返っていく男、ベンジャミン・バトンの人生を通し、恋・結婚・出産・出会いと別れ・希望と挫折など、普遍的な人生の素晴らしさを描く。

人生で大切なのは顔

僕は年相応に見られることがありません。10歳くらい若く見られることが多いです。若く見られるんなら老けて見られるより全然マシじゃん、と思われたかもしれません。僕もある時期まではそう思っていました。初対面の人に「何歳に見えます?」と聞いて、思惑通り実年齢より若く見られたあと「実は○○歳です」としたり顔で正解を告げた時、相手が「えー」と驚くのが小気味よくて仕方ありませんでした。しかし、考え方を改めてからはおもむろに自分の年齢をネタにすることはやめました。それは、「若く見られる=若々しい」という単純な等式を当てはめることをやめ、「若く見られる=未熟、半人前」と見られていると考えるようにしたからです。

「男の顔は履歴書」だなんて言われます。社会の荒波に揉まれつつ責任感と使命感を持って仕事をしている男というのは、年輪のごとく顔に系譜が刻まれていくという意味です。僕は営業職ではないので他社の担当者と打ち合わせをすることはあまりないのですが、それでも部課長クラスの方とお会いする機会はあります。いろいろな方とお会いしてまず第一印象として記憶に残るのが、顔です。この方は入社以来コケることなく昇進していったからこんなに自信満々なんだな、この方は人心掌握術を心得ていて世渡りが上手そうだから気をつけないといけないな、この方は部下の個性よりも上司の顔色を窺ってばかりの小心者だから怒らせないようにしないとな。といった具合に、たとえ人相術を会得していなくても顔を見ればだいたいその人の人物が読めるものです。

だから、僕が実際より若く見られることに浮かれていられないと考えたのです。遺伝的に童顔なんで、というのは言い訳にしかなりません。たしかに、僕は商談や交渉などの百戦錬磨ではないので、弁論をしたところで瞬く間に論破されてしまうでしょう。それに加え、若く見られて舐められることもあるでしょうし、相手が変な優越感を持って自信たっぷりに畳み掛けてきたらこちらが譲歩せざるを得ない状況になるかもしれない。僕の顔が示す履歴書が浅く見られてしまうのです。でも、これはどうしようもありません。こういう顔なんですから。威厳を見せつけるため眉根を険しくしたところで意味はないです。どこぞの紛争地帯で生きるか死ぬかのサバイバルを5年くらい経験すれば、箔くらいは付くかもしれませんが。

この映画の主人公ベンジャミン・バトンは、老人の姿で生まれ、中年期、青年期、少年期と徐々に若返っていき、ついには赤ん坊の姿で死ぬという運命を背負っています。外見的には老人から赤ん坊ですが、精神的には赤ん坊から老人。精神的な成長は健常なのです。ですが、彼は顔に限って言えば、シワシワで生まれ、ツルツルで死にます。このシワシワの顔とは、皮膚の張りが衰えてたるんだ様子、彼の場合は正常な赤ん坊と同じ状態と言っていいのかもしれませんが、とにかく豊富な人生経験による年輪、つまり「履歴書」ではありません。では逆に、彼が赤ん坊の姿で死んだ時のツルツル顔とは、見たままのまっさらということでしょうか。結局のところ、彼はまっさらのまま生まれ、まっさらのまま死んだのでしょうか。では、彼の人生とはいったい何だったのでしょうか。

若く見られる、老けて見られる、未熟に見られる、ベテランに見られる、弱そうに見られる、凶暴そうに見られる、白痴に見られる、賢人に見られる。これらの「見られる」という動作は、第三者のものです。僕ではない、第三者が僕の顔を見て「~ふうに見える」と判断したことを僕が気づいて「見られる」という動作を感じるのです。「見られる」ということは印象であり、印象は記憶に残すものです。普通は相手に直接伝えるものではありません。だとしたら、ベンジャミン・バトンの人生も彼と関わった人たちの記憶に残ったはず。彼自身、幼児から赤ん坊に“成長”していく過程で、自らの人生を振り返る余力などなかった。でも、逆行していく彼の人生を記憶してくれた人はいたのです。顔は大事です。僕も若く見られ続けることより、いい顔をつくる努力をしたいと思います。


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