クラッシュ
(2005年 / アメリカ)クリスマスを間近に控えたロサンゼルスで発生した1つの交通事故を起点に、多民族国家であるアメリカで暮らす様々な人々を取り巻く差別、偏見、憎悪、そして繋がりを描く。
人種問題の処方箋とは
アメリカ合衆国には多種多様な人種が住んでいるということは、いまさら言わずもがなの話。では、どのような人種構成になっているかというと、まず圧倒的多数を占めているのが白人で74%(2006年American Community Surveyより。以下同)。2番目に多いのがヒスパニック系で14.8% (メキシコ系64%)。そのうち43%が西部の州に住み西部の人種の27%ほどを占めていますが、一部のヒスパニックは白人として申請しているケースもあるようです。その次が黒人の13.5%で、うち56%は南部の州に集中。次いでアジア系(日本、中国、韓国、インド、ベトナム、フィリピンなど)の4.4%で、カリフォルニア州とハワイ州に多いとのこと。最後が、アメリカ原住民やインディアンとも呼ばれるネイティブアメリカンで0.8%となります。近年では全体的に出生率が低下している中、2011年7月、アメリカ国勢調査局は、ヒスパニック系とアジア系の出生率が白人の出生率を上回り、歴史上初めてマイノリティがマジョリティになったことを報告しました。この調子でいくと、2045年には白人はマイノリティの座から転落することが予想されています。
こうした人種構成の国なので、隣近所や職場の同僚、学校の同級生、商店の従業員、レストランの給仕人、役所の職員、病院の先生などが、必ずしも自分と同じ肌の色、言語、バックグラウンドを持っているとは限りません。大きな意味で単一民族国家と言っていい日本だったら、普通に日本語で通用するし日本式に会釈すれば事が運ぶものですが、そもそも民族間の統一した通念が存在しないアメリカではその場の空気を読んで水に流したり情けをかけたりすることはあり得ません。だからアメリカは訴訟大国なのです。日本では道徳を重視して集団生活の均衡を図りますが、多民族・他宗教のアメリカにそうした概念は存在しません。日本では暗黙の了解で済むことが、アメリカでは法律や契約など文章に明文化されていない限りは自由です。この「自由」という概念は個人によって異なりますので、当然のことながらぶつかり合います。自由という権利を最大限に、言ってしまえば自分勝手に追求するがゆえに、他人よりも自分自身が優先される。街中で肩がぶつかり合ったくらいなら「何だこの野郎!」で済みますが(ただ、多少荒っぽい口調でも自分は大丈夫だよというシグナルなんだそうです)、コーヒーこぼしてやけどさせてしまっただけでも「訴えてやる!」となってしまうのです。
この映画は、日常的に「ぶつかり合う」アメリカの人種構成を端的に映像化・物語化した作品です。ビリヤードのキューで突いたボールが他のボールの集まりにぶつかり合って放射線状に弾けるように、ひとつの事件が発端となって他の人たちに影響を及ぼし、その影響を受けた人たち同士でまたぶつかり合っていくという群像劇が描かれています。僕のような日本人が観たら、まったく無関係だった人間がひとつの事件を基に結びつき干渉し合う様を興味深く、またさまざまな人種が絡み合う展開にアメリカの広さだとか包容力だとかを感じ取るのでしょうけど、当のアメリカ人にとってはごく普通の見方をするのかもしれません。つまり、この映画を観て、日本人が感じるのは「比興」であるのに対し、アメリカ人は「共感」。なぜなら、この映画はアメリカの日常を描いたものだからです。
最後に、アメリカ人に限らず全世界の人は割りと日常的に「愛してる」という言葉を使います。日本では、本当に愛している異性に対してプロポーズをする時などここ一番で伝える言葉であり、その反面、本当に愛しているとしても多用し過ぎると薄っぺらく聞こえてしまったり騙されていると思われてしまうトラップも潜んでいます。ですが、アメリカでは(ここでは他の地域のことは考えません)「愛してる」は結婚を考えている異性だけでなく、家族や友人に対しても伝える言葉です。映画やテレビドラマなどで、父親と息子がハグしながら「愛してるよ」と伝え合っているのを見ると、普段そんなことはしない僕でもじーんと来てしまいます。これこそがアメリカという多民族国家を存続させている原動力なのかもしれません。「愛は国境を超える」とか「愛は憎しみを乗り越える」とか、24時間テレビっぽくて歯が浮きそうになりますが、実はこれこそがアメリカの真理なのでしょう。ぶつかり合って反目が生じても「愛してる」で解決する。キリスト教が大きく影響していることは明らかですが、もしかしたらこの感情こそがアメリカの道徳と言えるのかもしれません。