フィールド・オブ・ドリームス

(1989年 / アメリカ)

アイオワ州の田舎町に住むレイ・キンセラは農業でなんとか家計をやりくりする、一見普通の貧乏農家。ただ、若い頃に父親と口論の末に家を飛び出し、以来生涯に一度も父の顔を見る事も、口をきく事すらもなかった事を心の隅で悔やんでいる。ある日の夕方、彼はトウモロコシ畑を歩いているとふと謎の声を耳にする。その言葉から強い力を感じ取った彼は家族の支持のもと、周囲の人々があざ笑うのをよそに、何かに取り憑かれたように生活の糧であるトウモロコシ畑を切り開き、小さな野球場を造り上げる。

あなたの夢はどちらを向いているか

フィールド・オブ・ドリームス

「夢」って何でしょう。いちばんわかりやすい例でいうと、「大きくなったらパイロットになりたい」とか「お金持ちになって外車を乗り回したい」とか「世界を征服したい」とか、サンタクロースには頼めない人間的な成功を求める願望のことなのではないかと思います。要するに、達成するにはハードルが高く現実的には無理かもしれないけど、そこに至るまでの過程で得られる偶発的かつ実益的な成果を期待できるに値する大きな壁とでも言い換えられましょうか。もっと簡単に言ってしまえば、小学生が七夕の短冊に書くお願い事のことで、大人から「○○くんは、夢が大きくていいね」と頭を撫でてもらえる可愛げのある願望のこと。だから、「君の夢は何?」と聞かれて「ラーメンを腹いっぱい食べること」とか「ベルマークを500点分集めること」とかでは、言葉に出さないまでも「つまらないね、君」となってしまうわけです。だから、「夢」は、口に出す分には、叶いそうになければならないほどいい。いくらキャッチコピーでロマンティックに使われようとも、手を伸ばしたところで絶対に掴み取ることができないもの、それが「夢」という憧れの正体なんじゃないかと思います。

でも、実際に「夢」を叶えた人がいます。「1ヶ月で10キロ痩せた!」とか「万年独り者の僕に超絶美人の恋人ができた!」とかいう週刊誌の広告にデカデカと載っているヤラセ体験談の類は放っておきましょう。さて、本屋さんに行くと山積みにされている自己啓発書と呼ばれるジャンルの本には、苦労人から社長にまで上り詰めたエピソードや障害を抱えながらも自己実現した人の話などがふんだんに掲載されているではないですか。そうです。それはたしかに「夢」を叶えたと言えますね。別に僕は夢の力を信じていないわけではないので否定はしません。ただ、言いたいことは、「夢」が叶うことというのは、ある目覚めたら知らぬ間に実現されていたというような、魔法のステッキを振りかざしたら人生が一変したみたいな見えない力が介在していると考える人が多いのではないかということ。「夢」を叶えること、あるいはそこに至らないまでも満足のいく結果に終わったことというのは、本人の血を吐くような努力、たゆまぬ努力、諦めない信念の結果であるからです。

子供が「宇宙飛行士になりたい」というのは可愛いです。でも、そうなるための努力をしないまま何年たっても同じこと言っていたら、そっぽを向かれる。たとえ宇宙飛行士になれなかったとしても、英語や物理学の学習、体力トレーニングの積み重ねが別の分野で花開いたとしたら、その人にとっていちばんいい結果です。直接的な「夢」の達成ではないかもしれないけど、思ってもいなかったステージで活躍できるという「発見」をもたらしたといった意味で達成、言い換えれば人生における成功であると言えましょう。このように、「夢」を抱こうと思ったら、できるだけ自分の方向性に沿ったもので、なおかつ雲の上にあるような高嶺の花のほうがいいのかもしれません。「ラーメン腹いっぱい食べる」なんてのは数日バイトすれば達成できてしまうし、逆に「イギリス国王になりたい」というのは努力の結果ではないので非現実的すぎることになります。落とし所は人それぞれでしょうが、いろいろな成功体験記を読んでいると、自分自身のことをある程度理解し、手に届きそうで届かない願望を「夢」としてうまく設定できた人がより多く自己実現できているように思います。

ですが、本当にそうでしょうか。達成のための道筋は共通しているとしても、「夢」とは前向きで将来的なものに限られるのでしょうか。たとえば、過去に犯してしまった取り返しの付かない失敗を取り戻したい、過去に諦めてずっと放置してきたものともう一度向き直りたいという願望は「夢」といえないのでしょうか。それを問いかけているのがこの映画だと思います。ただ単に置き去りにしてきたものを取り戻すことではなく、過去を向き合いながら現在の自分自身を見つめなおし、未来につなげていく。実にファンタジックで、それこそ「夢」のような話ですけれども、だからこその「夢」なのでしょう。きちんと定義づけられたものではないからこそ、「夢」の向き先は一方だけではない。だから、僕はあり得ると信じたい。でも、覚悟は必要です。将来のことを思い描くタイプの「夢」とは異なり、現在と未来に加え過去とも向き合い、努力を継続していかなければなりません。果たして、主人公のレイはどこまでその覚悟があってトウモロコシ畑の野球場を残すことにしたのでしょうか。「死んだ父にひと目会いたい」という思いだけでは「夢」は「夢」でなくなってしまうのですから。


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